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追記 新田先生の思考をめぐって 引用の美学

⸻ AI考

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追記 新田先生の思考をめぐって 引用の美学 ⸻ AI考

「対立概念を立てるとそれを乗り越えようとする動きが必ず起こる。」先日、画家の杉山卓朗氏が訪ねてきてくれて楽しいひと時を過ごした。本団体の設立趣旨やこのWEBサイトの内容についていろいろと意見を聞くことができた。上記はその中で出てきた話題だ。「人間にできてAIにできないことを何か考えると、AIはきっとそれを乗り越えてくるだろう。」お酒も入っており正確な言い回しまでは覚えていないが、趣旨はそういう内容だったと思う。「新田先生の思考をめぐって 引用の美学」と題して書いたテキストについて、すぐに古びてしまうのではという感想だった。

確かにそうだ。インターネット上にないテキストなどというものは、みんなが寄って集って載せていくだろうから、そのうちほとんどなくなってしまうだろうし、そうして、AIが人間の作った現存するテキスト全てを課題検討の射程に入れるようになれば、人間の脳内で起こる文脈の衝突による閃きや思考の熟成のようなものも先回りして生成していくようになるかも知れない。「人間という生き物はこういうことを伝えたいと考える」というパターンが学習されれば、伝えたい熱意も偽装されうる。

芸術作品の奥深さというのは、その作品を作る際に考慮した尺度の数ではないかと私は考えている。私にとって古今東西、世界中の人間が考え書き残したことや表現したこと全てを考慮に入れて答えを出す究極のAIが登場するとなると、人には太刀打ちできない作品を生むということになるわけで、すごいことになったなと思うのだろう。

それで、そうなった時にもう一度「究極のAIにできなくて人にできることは何か」と問うとする。考えうる尺度は全て網羅された後だから、尺度で測れない外側、つまり本質や類型をはみ出た実存ということになるのかも知れない。普遍と特殊の尺度でいうところの究極の特殊である(これが尺度の外側にあるというのが面白い)。特殊というと「個性」や「何でもあり」の新奇性を想像してしまう向きもあるが、そうでは無い、そういうものは個の中の高々数個の尺度の組み合わせであることがほとんどであり、究極のAIの提示する射程内からは出られていない。そうではなくて、何によっても説明できないような究極の未知なるものでないといけない。

私たちも究極のAIも誰も知らないものは果たしてあるのだろうか? おそらくあるだろう。何しろ究極のAIは私たちの知っていることは何でも知っているかもしれないが、人間のテキストを基にしている限り、私たちの知らないものは当然知らないはずである。マテリアルインフォマティクスのような知っていることを組み合わせる類の新奇性は作り出せても(それも凄いことではあるのだが)、全く未知の存在を神のように創造するわけにはいかない。概念空間を出られないAIが生身の現実世界や自然から人もAIも知らなかった何かを見つけてくるようになるだろうかという問いを立てることになる。

例えば、究極のAIが手足を具え地球のあらゆるところを闊歩できるようになり、人が行ったことも無い深海や地中深くやミクロの世界で何か未知のものに出会ったとしたら、それはそれでスリリングなことかもしれない。世界中に究極のAIに繋がった大きさもさまざまな無数の探査ロボットを配備しネットワークを作ればどんどん未知の世界が明るみに出るかも知れない。確かに、想像力でどこまでも対立概念を超えていけそうだ。

杉山氏は「生きる理由はそれが神によって与えられていると考えることで立ち現れる」という一節(何の引用かは忘れてしまった。また聞いておくとしよう)を引いて、その時その場所に居ること、その地点に注ぎ込まれた過去やその地点を様々な尺度で位置付けている環境がその人の生きる道を指し示すということを「定点観測」と名付け、それを作品にするというビジョンを話してくれた。

人にとって意味があるのは、結局その時その場所にいるというコンテクストの特殊性だけになってしまうのではないかと。もちろん、それは尺度の組み合わせに過ぎないわけだから、究極のAIがその時その場所にいる人間ならこういう作品を生み出すに違いないというシミューレーションをしてくるようになるかも知れないが、その人本人を前にシミュレーションする意味はない。あっていれば「だから何?」だし、間違っていれば「残念でした、違うよ」となるだけだ。せいぜい利用価値があるとすれば影武者を作れるかも知れないということぐらいだろうか。それによってAIの偽装を無意味化できるだろう。しかし、そのようなアイデンティティの再認識は作者本人にとっては大事かも知れないが他者にとってどれほどの意味があるのだろう。この場合、大切なのはやはり特殊性ではなく、他者とは分かり合えないと思っていた何かが、実は本質的な普遍性を持ったものであったという気づきや共感なのではないだろうか。

國分功一郎が「暇と退屈の倫理学」で「人は自分の環世界で退屈を紛らわせることに満足する生き方を生きるしかない」というような趣旨のことを書いていた。自分の環世界をどう措定するか?「神を設定する」ことによってか「AIと張り合う」ことによってか「未知の探索に生きる」ことによってか。その設定如何で生きる理由が違ってくるということなのだろう。AIと張り合って碌なことはないという杉山氏の忠告は多分正しい。張り合うのではなく共存することで環世界が豊かになるのかも知れない。

引用の美学の試みは、新田先生という位置に立って見た美学というものがあり、それを追体験する楽しみということに尽きるだろう。将棋の棋士がAI以後も将棋を差し続けているのは、彼が将棋に向き合い研鑽を積んできたという過去や彼を応援する人々やライバルが彼に将棋を指す楽しみを与えているという事実に起因している。それをAIは奪えないだろう。将棋を上手に指すAIが隣にあっても人は人が指す将棋を楽しむことができる。むしろAIがある方が、素人でも形勢が見えて面白いと思うことさえあるかも知れない。もし、応援している棋士がAIと違う手を指したら、きっとハラハラドキドキするだろう。

この時、AIは越えるべき比較対象ではなく、デカルトの座標のような、表象される場として存在していると見ることができるだろう。AIは人に新たな(まだ精度に難があるものの)座標、AI的視点による善悪の判断基準を追加したわけだ。もちろんそれが絶対と言うつもりはない。答えは多くの場合一つではないだろう。

仮想敵を措定した狭い環世界を生きるのではなく「私以外の全てのものとの関わり」に環世界のフォーカスを広げるのが良いのだろうと直感的に感じる。その時、広すぎる環世界を探索する一つの座標にAIがなってくれる日も近いだろう。

生きるということは私の環世界と他者の環世界の共存・共鳴の妙だと捉えたら良いのかも知れない。そしてこの度、そこにAIという便利な座標が新たに導入されようとしている。

個人の環世界が、他者のそれと影響しあって生まれている。幾つもの有意な共鳴が血縁や会社組織や地域社会でさらに大きなうねりを作り、所属先としてのアイデンティティを生みだしている。そして、それが至る所で幾重にも響き合って、地球全体を包んでいる。そこにうっすらとぼやけてAIの経緯度線が見えている。

そんなビジョンが浮かんだ。(2023/07/30 管理人S)

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